歴史
寂光院略縁起 [寂光院の歴史]
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。
鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されている。
初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照(たまてるひめ)[敏達13(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で慧善比丘尼という]で、その後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられるが、史料がなく詳細が分からないため、阿波内侍(あわのないし、藤原信西の息女)を第2代と位置づけている。崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家のあと永万元年(1165)に入寺し、証道比丘尼と称した。出家以前は宮中にあった建礼門院に仕え、この草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされている。
第3代の建礼門院(平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母)は、文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れた後、寂光院に侍女たちとともに閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごした。
平成12(2000)年の火災で焼失する前の本堂の内陣および柱は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたもので、外陣は慶長8年(1603)に豊臣秀頼が片桐且元を工事奉行として修理させた桃山様式のものであった。また、その後江戸時代初頭には、豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に手を尽くした。現在の本堂は古式通りに忠実に復元したものである。
本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが好ましい風情をかもしだしている。
姫小松は、『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松である。
文治2年(1186)の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面するところにも登場する。
本尊 六万体地蔵菩薩
本堂には、国宝修理所の故小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、落慶式と同時に、魂入れの儀式として入仏式が厳修された。鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色である。
建礼門院(けんれいもんいん)
建礼門院像は、木造、ヒノキ材の寄木造で、女性像には珍しく結跏趺坐の座り方で、浄土宗の墨染めの衣を着している。現在は天台宗であるが、中近世には天台・浄土兼修の尼僧寺院であったからである。新しい像の制作は、平安仏所江里康慧仏師に依頼し、扉に美しい大原に自生する草花を配した溜め塗の厨子も平安仏所の故佐代子夫人(人間国宝)の手によるものである。
阿波内侍(あわのないし)
焼失前の阿波内侍像は、藁芯に書状類を貼り籠めたいわゆる張り子の像であった。焼失後の焼け残った書状類から室町時代後期ごろの年号のあるものが発見されており、制作は室町時代ごろであると推測されていた。
新しい像は同じく平安仏所の制作になる。