境内のご案内
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受付
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本堂
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四方正面の池
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雪見燈籠
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汀の池
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建礼門院徳子
御庵室跡 -
諸行無常の鐘楼
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鳳智松殿(宝物殿)
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孤雲(茶室)
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建礼門院徳子
大原西陵
受付
拝観の受付、朱印の授与、数珠玉(数珠巡礼)
の授与、写経やお抹茶の申込受付など
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本堂
桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)。正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側障子戸。
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四方正面の池
本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設ける。池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されている。
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雪見燈籠
夲堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀吉が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝える。宝珠、笠、火袋、脚からなる。笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形とする。火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。円形台下に猫足三脚を付けている。銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である。
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汀の池
池水に汀の桜散り敷きて
波の花こそ盛なりけれ
(『平家物語』大原御幸)
文治2(1186)年4月下旬、後白河法皇が忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねたおりの一首。
本堂前には桜(汀の桜)と松(姫小松)があり、往時をしのぶことができる。姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものであったが、平成12(2000)年の火災で枯れてしまい、倒木の危険があるため伐採のやむなきに至った。現在はご神木としてお祀りしている。
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建礼門院徳子 御庵室跡
壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられ、都を遠く離れた洛北の地に閑居した。翌年、後白河法皇が訪れたときの庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。女院は平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごした。
本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡がある。現在は石碑が立つのみだが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残る。
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諸行無常の鐘楼
本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であった。鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次である。
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鳳智松殿(宝物殿)
平成18(2006)年秋に本堂の復興を記念して建てられた。『平家物語』ゆかりの文化財等を展示している。また一角にはミュージアムショップを併設。
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孤雲(茶室)
京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年3月に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。
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建礼門院徳子 大原西陵
寂光院の門前の手前に一直線の石畳の陵墓径があり、秋には沿道の紅葉が美しい。草生を見渡すことのできる寂光院の東の背後の高台に、建礼門院の墓所と伝えられる大原西陵がある。三千院の北にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西陵といい、五輪塔が祀られている。 さらに草生川をはさんで御庵室跡の向かいに阿波内侍・大納言佐局・治部卿局・右京大夫・小侍従局ら建礼門院の侍女たちのものと伝える墓石がある。本堂前の汀の池にはこの4人の名前を記し「在寺南翠黛山距此半丁程」とある文化5年(1808)3月建立の石柱がある。
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